墨の磨り方について
硯でもって墨を磨る楽しさがわかれば、文房の喜びもひとつ増えることになる。墨の磨り方をやかましく言う人も多いが、さて、どんなものだろう?
稀少で特殊な硯材を使い、あるいは特別な砥石で硯を目立てし、あるいは長年の経験によって墨磨りの特殊な腕前を会得している、そうでなければ優れた墨色が得られない云々と、専門家ぶった勿体をつけるのは難しいことではない。
しかし自分の硯を使って自分の墨を磨るのであるから、もっと気軽に楽しんでいただきたいところである。とはいえ幾つかの注意点を知っていれば、日々の磨墨に資するところもあるかと思われる。
以前はいつも墨汁を使っていた、あるいは専ら墨磨り機を使用していた、という方々が今日から自分で墨を磨って楽しむ際の参考になれば幸いである。
硯面と相性の悪い墨の場合、素早く墨を動かして磨ろうとすると、膠が粘って気泡がたってしまう。そのような場合は、はじめはあまり力を入れず、ゆっくりと磨ると良い。
墨と硯の相性が抜群にあってくれば、素早く墨を動かし、無造作な磨墨でもいい墨液が得られるものである。
墨と硯の相性に問題がなければ、後は墨に与える力の加減だけである。曰く「病婦の如く」弱弱しい力で磨れ、ともいう。しかしあまり力を抜くと、何時間磨っても墨液が粘るだけで一向に濃くならない。力の加減は、墨の状態と硯の鋒鋩の調子で塩梅しなければならない。
一般に、鋒鋩が強く粗い硯で磨る時ほど、力を抜くようにした方が良いだろう。磨墨面に圧力がかかり過ぎると、墨が水に溶け込むよりも、削れてしまうことが多いからである。
また古く硬い墨を磨る時は、これも磨り始めほど力をあまり入れてはならない。
墨の大きさによっても、加減は異なる。断面積が小さく磨墨面の面積が狭い墨は、かかる圧力が大きくなるので、あまり力を入れ過ぎてはならない。逆に大きな墨をする時は、あまり軽い力で磨っていると、磨墨面がとろけるだけでいつまでも墨は濃くならない。
鋒鋩が繊細緻密なすぐれた硯石(老坑水巌など)に、まったく新しい油烟墨を使うのであれば、かなり力を入れて素早く磨っても大丈夫である。逆に力が足りないと膠が粘ってしまい、具合が悪い。
しかし、非常に硬い古墨を、鋒鋩が強くやや粗い硯で磨る場合は逆である。墨が水にうまく溶けこまず、粗い鋒鋩で墨が「おろされる」状態になる。墨の細かい破片が墨液に混じり、濃墨で用いて艶なく、淡墨で用いれば墨の砕片が筆線に現われて見苦しい。
一度も磨っていない墨を初めて磨る時は、磨墨面が硯面と合っていない。そのような場合は、(上の写真のように)墨液にオリのようなものが浮いてしまうことがある。このような墨液は、濃墨に作って書写の練習にでも使うよりない。しかしそうした硯でも、磨り込んでゆくと硯面と磨墨面が合い、また硯面の鋒鋩の調子がととのって磨りやすくなるから、すぐにあきらめてはいけない。
乾燥した墨は堅い。半面、湿気を吸った墨は柔らかくなる。硬い墨は可能であれば細密な鋒鋩をもった硯で丁寧に磨墨したい。柔らかい墨は鋒鋩が弱いと墨液が粘るので、やや強めの鋒鋩を持った硯で磨る方が、いい結果が得られる場合が多い。
得るべき墨液の状態と墨色
気泡も浮遊物もなく、ねばらず程よくなめらかで、落ち着いた光沢をもった墨液が得られれば成功といえよう。
淡墨で使用する場合も、かならず充分に濃く磨ってから墨液を希釈しなければならない。充分に濃くない墨液では、希釈しても伸びが悪いものである。
新しい墨を使用する場合、あるいは湿度が高く墨が湿りがちな場合は、磨ってから20分〜30分程度放置してから使用すると、落ち着いた墨色が得られる。しかしあまり長時間放置すると、膠が凝固して墨の漆黒の艶が損なわれてしまう。
膠分の多い油烟墨ほど、墨が濃くなるためには時間を要する。
よく洗った清潔な硯で磨らなければ、墨色の冴え冴えとした光沢が損なわれるから、硯は都度よく洗っておかなくてはならない。
挟雑物を含む質の悪い墨をどうしても使いたい場合は、磨った後に墨液をしばらくおいて上澄みを使う法がある。
磨った後の始末
墨を磨った後に磨墨面に墨液が付着していれば、軽く濡らした反古の紙かティッシュで磨墨面の四辺をぬぐっておくと良い。墨液が付着したままにしておくと、そこから割れてくることがある。(ただし徽州の墨匠はこれをしない方がいいという。日本に比べて大陸は乾燥しているので不要なのかもしれない。)
使い終わった墨は、しばらく放置して磨墨面が乾燥してから収納する。そのとき墨床のようなものに乗せておいてもいい。乾燥しないうちに箱に収納すると湿気が出る。また使い終わった墨を放置しておくと、亀裂や断裂の原因になる。
日常使用する墨であれば、桐箱深くしまい込む必要はないが、むき出しにして風の当たるところに放っておくと、断裂の原因になる。
そのほか、季節要因の注意点を。
夏場の磨墨の注意点
日本の夏は湿度が高いため、墨が湿気を吸って重くなりがちである。連続して同じ墨(特に新しい墨)を使い続けると、磨墨面から水分を吸って柔らかくなってしまうことがある。
手のひらの温度、湿気によっても墨は湿気てしまう。(夏場に限らないが)使用にあたっては、乾燥のためのインターバルをおくのが理想的ではある。贅沢を言えば、2〜3本の墨を日々交互に磨った方が安定した磨墨が得られる。
磨る時もやや手早く、わずかに力を入れて磨った方が良い場合がある。硯は特に鋒鋩の強いものを選び、若干粗めの硯を使った方が良い磨墨効果が得られることがある。
冬場の磨墨の注意点
冬場は墨が乾燥し、硬く引き締まっている場合がある。冬場に硬い墨を磨る場合は、硯は特に鋒鋩が密で細かいものが磨りやすい。硬い墨を粗い鋒鋩で磨ると、墨が削れて細かい小片が墨液に残ることになるので注意が必要である。
また硯が冷たすぎると膠が溶出しない。場合によっては、硯を室温程度に温めた方がいい。しかしあまり熱し過ぎれば、墨が粘りやすくなるので注意したい。
注)墨匠の話では、冬場に墨がうまく磨れないようであれば、微量の生姜の汁を用いると良いという。生姜は膠に作用して、墨液を拡散させる効果があるということだ。この場合、生姜の切片を硯面にこすりつけてから墨を磨る程度で良い。
以上は、夏冬の気候や室温、湿度、居住条件に依存するが、参考までに。墨の膠は温度や湿度に非常に鋭敏に反応する。磨墨の調子の変化から季節の移り変わりを知るのもまた楽しいものである。