曹素功芸粟斎の歴史
曹素功芸粟斎の創業者は、本名を”聖臣”、字を”昌言”といいました。店名ともなる”素功”は彼の号です。明の万暦四十三(1615)年、安徽省歙県の岩鎮に生まれ、清の康煕二十八(1689)年、七十五歳で亡くなりました。彼は若き頃より墨を愛すること篤く、特に明墨で名高い程君房の製品をこよなく愛玩していたといいます。明から清へと王朝が変わる中で、明末の名工として知られた呉叔大が閉鎖される際、それを譲り受けて継承する形で、曹素功は創業されました。初期の曹素功の製品は、呉叔大の明墨と墨型は勿論、墨質の上でもそっくりに作られていたのです。
一方、初代をはじめ歴代の曹素功の主人は、外見上の豪華な墨よりも、実用に即し質的に優れた墨を作ることに意を用いてきました。その結果、当時の文人たちから高く評価され、宮中へ献上する貢墨などの高級墨の多くを手がけることとなったのです。
当初、曹素功は一族挙げて歙県にあった一店舗を堅持して、墨質の維持向上に努めながら営業していました。しかし、乾隆時代の後半の第六代目に至り、時世の流れに適応して「曹素功引泉」、「曹素功徳酬」、「曹素功堯千」という三店舗に分かれて活動を拡大したのです。その結果、その後のアヘン戦争や太平天国の乱などの国難を潜り抜け、存続することができたのでした。特に時勢をいち早く予見して上海に進出した曹素功堯千は、著しく発展し、清朝の倒潰や先の大戦等にも揺らぐことなく、時代を越えて存続しつづけていったのです。
製墨の現状
1960年代に入って、国の施策等により企業の合併統合が進む中、曹素功も同業者であった胡開文の職人等とともに、「上海墨廠」として再編されました。「鉄斎翁書画宝墨」などの墨で日本でも親しまれている「上海墨廠」は、近代的な設備と品質管理の下、高品位な墨を安定的に生産し、日本は言うに及ばず、台湾や韓国から遠くはフランスなどの市場に向けて数多く輸出していきました。
その後、「上海墨廠」は1980年代の改革開放経済の波の中で、いくつかの個人経営の墨廠に分かれてゆきました。現在では、”胡開文”や”曹素功”などのブランド名で墨の製造を行う墨廠が、安徽省を中心に20ばかりも存在しています。「鉄斎翁書画宝墨」や「大好山水」などの墨も、複数の墨廠が名称を共有して生産しており、製法や品質に若干の違いが見られるのです。
弊社の商品も、そのような墨廠の一つの製品です。但し、その墨廠は、”曹素功芸粟斎”の名称を正しく受け継ぐものであり、その伝統ある名称を汚すことのない、優れた品質の製品を誇っているところなのです。