製墨の歴史と現在〜製墨の源流〜

清末の流行作家とでも言うべき曲園先生こと兪越は、中国の墨に関して、こんな風に語っています。「邢夷が始めて墨を作り、これより文字がはじまった。或いは田真が造ったとも言われる。事実は遠い昔のことで確かめることはできない。むかし墨をもって名があるのは、実は韋誕から始まる。その後、五代の時には、李廷珪父子があり、宋代には潘谷があって、またその美を継承した。陳贍、王迪などの輩になると、知る人もすくない。 …(中略)… もともと、墨の流派は、その源を易水に遡ると言われる。遺法は新安に伝えられ、今に至るまでその技は優れている。明代の羅氏と方氏は、まさに李氏のなしえなかったことをやろうと欲した。曹氏はその後踵を接するように起こったが、名は五都市で重んぜられている。艶々たる松烟の青、湛々たる玉光の紫、一丸を豹の皮袋から取り出せば、値は連城氏と同じである」


悠久の歴史を誇る中国においては、墨の歴史もたいそう長く、この話に登場する邢夷という人物は西周時代(BC2000年頃〜BC771年)の人ですし、田真は前漢時代(BC206年〜8年)の人だと言います。韋誕という人は、英雄豪傑が活躍した三国時代の人物で、松を燃やして採った煤を用いて墨を作ったという、製墨に関する具体的な事績が知られています。その後に続く李廷珪父子や潘谷なども、その時代時代を彩った有名な製墨家たちでした。墨の流派の源と説かれている易水(今の河北省易県)というところは、むかし良質の松が多いところだったので、腕の良い職人たちが集まり、その技を競い合った土地でした。唐末の戦乱で易水が荒廃すると、そこに集っていた職人は四散し、やがて黄山の麓で老松の生い茂る新安というところにたどりついたのです。新安とは、今の安徽省にほかなりません。
 「徽墨」と総称される安徽省の墨は、このように長い中国の墨の伝統の中でも、その本流に位置するものなのです。そんな徽墨にあって、清時代(1662年〜1911年)に最も重んじられた製墨家が、曹素功芸粟斎でした。「値は連城氏」とは、戦国時代(BC403年〜BC222年)の趙国の至宝で、15の城市と交換されたという故事がある「和氏の璧」のこと。曹素功の墨は、それと同じ価値があると、曲園先生は絶賛しているのでした。
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